2019年6月、京都の向日市で、生活保護ケースワーカーが生活保護受給者と共に死体を遺棄するという衝撃的な事件が起きました。この事件について、複数の援助職の方から「ブログに書いてほしい」というお話をいただきましたので、「生活保護ケースワーカーの過酷な職場環境と事件との関連性」を切り口に、この事件の構造について私が感じることを書いていきます。(全て読むと10分くらいかかるので、時間のある時に読んでみてください)
まず、事件の詳細からご確認ください。(当時の報道を抜粋したものです)
アパートの自室で女性を殺害したとして、殺人容疑で再逮捕された橋本貴彦容疑者。一連の事件では生活保護を受給していた橋本容疑者の担当ケースワーカー、京都府向日市職員のY(29)と図越(ずごし)幸夫(52)の両被告が死体遺棄罪で起訴されたが、橋本容疑者はY被告を日常的に脅すなどして、主従関係を構築したとみられている。しかし、市はこの異常な関係を把握できず、組織的な対応も取れていなかった。専門家は事前に気付けなかった市の対応を疑問視している。
市によると、橋本容疑者はY被告に、威圧的な言動や長時間の電話などを繰り返していた。Y被告は「ケース記録」と呼ばれる日誌に保護費の増額要求や威圧的な態度、長時間の電話がかかってくることを書き込んでいた。
向日市も橋本容疑者が「処遇困難ケース」に該当すると判断。家庭訪問の際は基本的に2人態勢を取るなどの対策を取っていたが、Y被告の勤務態度に変化がなかったことから、担当を交代させなかったという。市は「問題はないと思っていたが、結果としてこのような事件が起こってしまった。なぜ異変に気づけなかったんだろうという思いだ」と話す。事件を受け、市は今月1日から生活保護の窓口に警察OBを配置したという。
元ケースワーカーの関西国際大の道中隆教授(社会保障論)はケースワーカー時代の経験談として、「威圧的な言動を受けることは頻繁にあった」とし、「そのような受給者には来庁してもらい、複数の職員で対応すればトラブルは防げる」と話す。そのうえで「組織としての対応ができていないと感じる。警察など関係機関との連携が取れていないのが致命的だ」と指摘した。
私はこの事件をテレビのニュースで知ったのですが、その時点で「これは起こるべくして起きた事件だ」と確信しました。
まずは、この事件について、実際に生活保護ケースワーカーはどう思っているのかを聴いてみました。これは、東京都の区役所でケースワーカーを務めていた方のお話です。
これは、ケースワーカーの方なら誰もが同意できる内容ではないかなと思います。私も全く同感なのですが、私の役割はこれらを「人間関係の構造」できちんと説明することです。ここから、この事件の問題の本質を解説していきます。
「悪質なクレーマー行為を助長してしまう職場の環境」とは。
まず、初めに考えたいのは生活保護受給者である橋本容疑者に対する、市としての対応についてです。
報道を見る限り、日常的に担当ケースワーカーのYさんを脅して恐怖を与え、ケースワーカーの車を使ったり、買い物をさせたり、完全に使い走りにして主従関係を築いていた。「日常的に威圧的な言動があることなどは記録に書いてあった」、にも関わらず組織として何の対応もしなかった。
つまり、橋本容疑者の悪質極まりない暴力的言動に対する、組織としての明確な境界線を一切設定していなかったのです。
「明確な境界線」というのはつまり、暴力行為(この記事内で使う「暴力」とは、身体的暴力だけでなく、脅す、威嚇する、電話を切らないなどの精神的暴力も含みます)に対する限界を設定するということです。
大声で威嚇するなら関わることはできません。これ以上やるなら警察を呼びますよ。
このように、組織の役割を果たす上で支障になる暴力行為等に、明確に限界を設けること。そして、この限界を越えてくる人には、「組織としての断固とした対応」をとること。
これが本当に大切です。
例えばですが、担当者から「暴言はやめてください」と伝えてもやめてくれない場合、管理職や責任者から「すでに弁護士と警察には相談しています。これ以上続くならこちらとしても看過できません」などと明確に組織としてのスタンスを伝える。これだけでも解決するケースは少なくありません。
一方で、担当者がクレーマーを一人で抱え込み、上司のサポートがない環境において、クレーマーはどんどんパワーをつけて要求をエスカレートさせていきます。私は普段、クレーマーや暴力的言動を繰り返す人への対応について職場から相談を受けることがありますが、現場のスタッフと管理職で、明らかに困り具合に温度差があることは珍しくありません。
現場は疲弊しているのに、管理職はあまり困っていない。
クレーマーが長期に渡り迷惑行為を繰り返すことができる問題の本質は、まさにそこなのです。組織が暴力に対するスタンスを明確にせず、役職者が役割を果たさない。現場のスタッフはクレーマーとの二者関係を強いられ続ける。
これこそ「悪質なクレーマーを職場が育てる環境」と言え、現場のスタッフは日常的に安全を奪われ続け、燃え尽きや退職者が量産されます。
暴力被害を「よくあること」として仕事の一部にされ、ケースワーカーは孤立する。
この暴力に対する「限界設定」が特に苦手な職場を、私は二つ知っています。
一つ目は、介護や福祉の職場です。
利用者さんや患者さんからの暴言や暴力を受けることについて、「この仕事をしていればこれくらい当たり前」「イヤなら辞めれば?」と仕事の一部にしてしまう。
前科がある怖い人に、胸ぐらつかまれてすごまれてさ。他にも、首を絞められそうになったことがあってね。昔はそんなのばかりだったよ!今の子たちは甘い甘い!
暴力被害を武勇伝のように語り、暴力に慣れることが仕事に慣れることであるかのように語られる。暴言を受けた人が職場に被害を訴えようものなら、「弱い」「早く慣れなさい」なんて言われてしまう。対人援助の職場は、人手不足が叫ばれているにも関わらず、未だにこんな根深い課題を抱えています。
生活保護ケースワーカーも同様です。
激務で疲弊し、暴言を受けて傷ついた末に、周りからこんな言葉しかかけてもらえない。
「多少の暴力被害や激務は当たり前。早く慣れるべき」
これが多くのケースワーカーの現場に見られる実態です。だから、職場に暴言などの被害を訴えること自体が「恥」という意識につながりやすく、問題を一人で抱え込む人はたくさんいるでしょう。
そして、もう一つの限界設定が苦手な職場。
それは、役所などの公的機関です。
役所などに勤めた経験のある方なら誰でもわかると思いますが、それがどんなに理不尽で悪質なクレームであったとしても、公的機関は「クレームがあった事実」そのものを嫌う傾向があります。つまり、理不尽で威圧的な言動を繰り返す人がいても、毅然とした対応をとることが苦手で、できるだけ摩擦を避けて穏便に済ませる方向で対応します。
例えば、電話で長時間暴言を繰り返す人に対して、「死ねとか殺すとか言われるととても苦しいです。電話を切らせて頂きます」と言って30分位で電話を切るといった対応ではなく、相手が納得するまで延々と説明し、いつまでも電話を切らない。だから、悪質なクレーマーによる暴力的な言動が長期化し、時間と共にエスカレートしやすいのです。
ここまで読んで頂くと、福祉事務所がどれだけ過酷でリスクの高い環境なのかわかりますよね。(もちろん、きちんと対応している職場もあることを補足しておきます)
暴力的な言動に対して明確な限界設定ができず、暴力被害が仕事の一部になる。橋本容疑者によるケースワーカーへの長期に及ぶ支配行為を可能にしていた大きな要因は、職場環境であることに間違いないと思います。
支配を受け続けた人が陥りやすい心理状態
次に、橋本容疑者と担当ケースワーカーの異様な関係性について考えてみましょう。ケースワーカーが、受給者と共に死体遺棄を行う。日常的に主従関係を築かされていたと言え、こんなことが本当に起こりうるのでしょうか。
人は、長期的に支配・コントロール行為を受けるとどうなるのか、説明していきます。
① 相手の感情が自分の責任になる。
例えば、相手が自分の都合で勝手に怒っているだけなのに、「私の対応が悪いから怒らせてしまった」と相手に生じる感情を自分の責任にしてしまうことです。
② 恐怖、不安、無力感に支配される。
とにかく支配者を怖れ、相手の機嫌を損ねないことが最優先になります。
③ 自信を喪失し、自責的になる。
支配を受け続けると、いくら相手の言っていることが理不尽だと感じても「私の考えの方が間違っているんじゃないかな」と自分の考えに自信が持てず、ネガティブになります。 パワハラを受けている人に、「あれはパワハラだよ!人事に相談した方がいいよ!」と伝えても「確かに課長の言い方はきついんだけど、言っていることは間違ってないから。悪いのは私だし…」とやたらネガティブな反応が返ってくることはありませんか?
長期的に支配を受け続け、自信が喪失している状態なのです。
④暴力の後に急に優しくされると嬉しくなる。
とても怖い上司に理不尽にキレられて落ち込み、恐る恐るメールで謝罪したら「全然オッケー!こっちこそ言いすぎてごめんね!」と先ほどの怒りから一転して優しくされる。こんな経験はありませんか?
支配を受けて恐怖と嫌悪感でいっぱいの時に、急に優しくされると、不思議なことに相手に対して嬉しい気持ちになります。
「なんだ、この人はひどいやつだと思ってたけど、実は優しいんだな」「私の理解が足らなかったんだな」「この人を守れるのは僕だけかもしれない」
このようにして、自分から距離を縮めてしまうことがあります。これはクレーマーがよく使う支配行為の典型です。要求が通らないと相手の安全を奪い、要求が通ると急に優しくなり相手にすり寄る。こうやって相手の感情を激しく揺さぶります。
相手への恐怖が強ければ強いほど安堵して嬉しくなりやすく、相手のことが嫌いなのか好きなのかよくわからない精神状態になり、ますます距離がとれなくなります。
支配者にコントロールを受け続け、上記のような心理状態に陥ることを「支配者に巻き込まれる」と言います。
担当ケースワーカーのYさんは昨年から橋本容疑者を担当し、支配を受け続けました。101人の受給者を担当し、ただでさえ激務で大変な仕事なのに、毎日のように威圧され、業務を妨害され、疲労困憊だったことでしょう。相手は過去に傷害致死や暴行事件を起こして何度も服役しています。本当に怒らせたら、自分だって何をされるかわかりません。
恐怖や不安に支配され、自信を喪失し、正常な判断ができなくなります。 ただただ怖い。怒らないで欲しい。そのためには、使い走りでもなんでもやります。
日々のストレスは相当なものだったでしょうから、うつ病などの精神疾患に罹患していたり、不眠に悩んでいたとしても全く不思議ではありません。疲労が重なれば重なるほど、感覚は麻痺し、判断力も奪われていく。さすがに死体遺棄を行うことまで想像するのは難しいかもしれませんが、この二人が極めて危険な関係性であったことはわかりますよね。